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12月15日「神を待ち望む」(イザヤ 8:17~22)


説教要約

 アドヴェント第3週を迎えました。アドヴェントは、ラテン語で「到来」を意味する言葉が語源となっています。日本語では、主がご降誕されたクリスマスを待ち望みつつ備える期間として、「待降節」と命名されました。

今朝は、神を待ち望むということについて考えたいと願っています。

 

私は主を待ち望む

アッシリアにより頼むのか、それとも主により頼むのかという神からの迫りの中で、ユダの人々やアハズ王に預言のことば(8:12-16)が与えられました。今朝のみことばは、その預言に対してイザヤが語った信仰告白と言えます。

それは、たとえ主が御顔を隠しておられても待ち望む信仰でした。

 

生ける真の神として

19節では霊媒や口寄せに頼ることが戒められています。しかし、その中心メッセージは、そのような怪しく空しいものではなく、「生ける真の神に尋ねよ」という点にあります。キリスト者である私たちは、神を求め待ち望んでいることでしょう。しかし、「今も生きて働いておられる真の神様」として、待ち望んでいるかということについて、改めて考えてみたいところです。

 

神への渇き

人の満たされない思い、餓え渇きは、根源的なところで神への餓え渇きに通じています。神が御顔を隠された世界の現実は、苦難と暗闇(22節)です。この世界の現実の悲惨さ、その中にいる自分の現実の姿、そして罪に目が開かれ、神に餓え渇くなら、神を待ち望む以外に私たちにできることはありません。

 

主の到来=クリスマス

そんな私たちに、主は素晴らしい御業をなしてくださいました。それが、神であるお方が人となって私たちのところに「到来」されたクリスマスの出来事です。神の御業と約束のゆえに、私たちは、神を待ち望むことができます。

 


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メッセージ内容(2024年12月15日)
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説教「神を待ち望む」.pdf
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